「卵を読んで」

 制服が夏服に変わった頃、中学生である私は国語の教科書を右手の指先でつまみながら授業の成り行きを眺めていた。

机の上には私の両腕の肘から下がおおむね投げ出され、合板の机の天板は肌からうすく滲みだす汗を迷惑そうに受け止めている。  

 肋骨が折れている喜多先生がこの作品の授業に入ったのは月曜日のことで、今日は水曜日だ。

だというのに、先生がたった今発した設問は、 「著者がこの段落の中で情景を描写している部分はどこだと思いますか。」 だった。

おそらく答えはこうだ。

「白ウサギの跳躍に似た波が海面を走る、の部分です。」 この肋が折れているというのにそれについて無視を決め込んで2ヶ月もたとうか、というせいぜいよく言って"飄々とした"喜多先生は、前回月曜日の2時間目からずっとこの調子だった。ひたすらにこの「卵」という文章の冒頭から半ばにかけて頻出する情景の描写について、 抜き出し、説明する。

生徒に具体的に風景を想像させる意図があるのかもしれない。(そういえばこの教科書の目次、「卵」の記載の右上には「☆情景をたのしむ」と書いてあったように思う。)  月曜日は島の地理的全容を把握した時点でチャイムが鳴った。

確かに宝探しに出かけるならこれで準備は万端だけれど、私は新学期、教科書を貰うとその日のうちには一通り読んでいる。

だから当然この短編が、卵から雛が孵化する瞬間に実際には立ち会えない離島の少年の話、ないしは第一にはそのことを不憫に思い、また第二には彼を他の生徒と対等かそれ以上に扱いたいと考えたであろう担任の紺野先生の話だと知っている。

にもかかわらず、その最初の授業の間、何度かその入江に卵を掻く二つの岬のイメージを思い浮かべる羽目になったくらい、肋先生は徹底していた。

 

 二回目の授業のいそがしくない時、私は白いウサギが海の上を走る様を思い浮かべている。きらきらとウサギが走る。  

 

 明くる週の月曜日『夕闇のなか、群青の水尾をひいて舟は島へ向かった。』

 

次の水曜日、孵化の場面をぱたぱたとやっつけて、涼しい顔で先生がした発問は、「どうして、この少年は、紺野先生に手渡された卵の殻を、『最初の一片にちがいない』と思ったのでしょう」であった。

 

 実のところ、教科書に載っていた作品で感想文を書こうと思い立った時、私が有していた『卵』にまつわる記憶は、これだけだった。

その上で思い返すと、この計四回の授業の進め方は、(今同じ課題文を手にしている貴方ならば簡単にわかることとは思うが)分量から謂えばどうにも偏っている。

先生は、物語に添って順当に行けばクライマックスと捉えられるべきであろう卵の孵化の瞬間に向かって授業を進めることは一切試みなかった。

ただ、この島の地形や自然の情景、を描写する一文一文の言葉の意味を説明した。  

 

そして私は25歳になった今、机の上のだらしなく伸びた腕と岬を、

卵と島に付属する小さな離島を、

卵の殻を毀す雛鳥とその最初の聲を無線機越しに聞いた少年を、

重ねて、思い起こす。

 

先生の最後の設問について、私がなぜだと思ったか、どうしてそうであればよいと思ったか、(具体的に言えばもしその殻が最初の一片である事実が重要ならば、紺野先生にセリフで言わせれば便利がよいように私は思うのに、著者はなぜそれを『最初の一片にちがいない』という地の文における主体の不明瞭な強い推定で表すに留まったのか、と思考をめぐらせて対面した一つの景色について)ここでは書かない。