Niki de Saint Phalle

ハロウィンが終わったと思ったらもうクリスマスの足音が聞こえてくる今日このごろ、

皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

先日、NMCの先輩であるふゆこさんと住川さんの結婚パーティー(二次会)に

招んで頂いて、参加した翌日。

新国立美術館でニキ・ド・サンファル展に行ってきました。

ニキがこんな美人だったなんて知らなくて、

かなりびっくりした。

射撃絵画の制作で、ライフルをぶっ放すNikiは本当にイイ顔をしている。

www.youtube.com

 

作品展そのものは、初期の作品から、シュルレアリスムの影響を受けた各作品、

代名詞とも言えるナナ、その後の集大成であるタロット・ガーデンまで

網羅したうえで、日本におけるNikiの一番の理解者であるYoko増田静江との関係性についても紹介してあります。

Nikiを知っていた人も、殆ど知らないような人も、

楽しめる内容でした。

 

彼女の作品は、「全く新しい彫刻」「既成概念をぶちこわす芸術」

などと云われている時があるんですが、

どちらかと言うとそういった既成概念を、

自分の表したいことを表すために積極的に利用している印象を持ちました。

むしろ、「正統なる継承者」という感じ。

 

分かりやすかったのはモチーフの扱い。

最たるもので言えば蛇ですが、

もう、蛇といえばキリスト教ないし聖書に関係のある

宗教を信じている人間からしたら押しも押されもせぬ一大モチーフですよね。

その蛇を、彼女は何度も何度も、時には恨み恐れる父親を表すものとして、

時には生命力の象徴として、かなり幅広い事象を蛇というモチーフに

仮託する。

古いモチーフを重用しているとも取れるんだけど、

実際は、その蛇と彼女の間には幾通りもの関係性が

個別に結ばれていて、その在り方は見る者が反射的に

思い浮かべる"蛇"の物語を超えている。

ただしそのモチーフが持ってるもともとの想起性は当然活きているので、

見る人がNikiの表現にいとも簡単に飲み込まれる。

 

そしてそのようなモチーフの正統かつ特別な運用を目の当たりにした上でなお、

作品から強く感じられるのは、彼女自身の身体性、欲望、意思であったように思う。

彼女が表したいのが常に彼女自身、彼女の世界であったためか。

どんなカタチにしたくて、どんな色が塗りたいのか。

今、私はどんな蛇が描きたいか。どんな大きさの蛇を、どんなポーズでつくりたいか。

そういった工程の手触り(に関する妄想)を、私は彼女の作品に見ていました。

 

本当はコンセプトガチガチで全然そんなことなかったかもしれないんだけど、

あー絶対このときのNIKIはこういう線を引いて沢山お花を描きたかったんだな、

という気持になれる。

それくらいひとつひとつの形、色彩が素晴らしくて、

Nikiが難しいことはなんにも考えてなかったらいいのになと思う。

無邪気で真剣で奔放で夢中になってほっぺに絵の具付けてて繊細で、

自分が愉しくない時は明るい色は塗れない、好きな作品の影響はすごくわかりやすく受ける、可愛くて大好きで天才なNIKI!

そういう夢を見せてくれる芸術家だな、と思います。

 

あと彼女の本名には全然Nikiに繋がりそうな要素(ニコラとか)がないのもイイ。

 

では皆様また次にお会いするときまで!

一体何が気に入らないのか

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 

新年も明けて随分たってしまいましたが、

それ以上に前回の更新からすごく時間が経ってしまいました。

 

私は折しもiPhoneを水没させて電源を入れないようにしているので

手持ち無沙汰で、一番暇な人間が一番おしゃべりであるという

ことを火を見るよりも早くお知らせする次第です。

 

パレスホテル東京のアフタヌーンティ、とっても楽しかったです。

あれ以降特にご報告申し上げるべきようなことはなくて、

彼氏とは相変わらず付き合っています。

 

最近一番感動したのは友人の結婚パーティーで、

絵に描いたようなリア充である私の中学のときの親友は、

大学の時のサークルの先輩と結婚しました。

彼女は薄紅色の可愛い君のドレスを着て、

会場では毎日新聞の本職の記者さんが作った二人のなれそめ新聞が配られ、

ABC朝日放送の本職のディレクターさんが作った二人のなれそめムービー、

サークルの仲間たちからのおめでとうメッセージムービーが放映され、

最後には安室奈美恵のキャンユーセレブレイトが流れました。

もちろん新郎の方のことは存じ上げなかったので、

最初は「ゆみちゃん、結婚おめでとう!!」と

彼女の結婚をお祝いする気持だったのですが、

数々の演出を心から楽しんだ結果、

最後にはその二人が結ばれたのは運命であり、

必然ですらあったのだと納得するにいたり、

「ゆみちゃん、こうようくん、末永く幸せに暮らしてね!本当におめでとう!!」

と二人のストーリーをまるまる祝福する気持になったのでした。

本当にいいパーティーだった。

行ってみるまで、ああいったムービーのことを

一体全体何が楽しくてやってるのかな、と思っていたのですが

会場に来てくれた人に、きちんと「二人の」結婚を祝ってもらうためには、

新婦側の友人には新郎のことを、新郎側の友人には新婦のことを

受け入れてもらう必要があり、その説得のためには

欠かせないものなのだと思いました。

まぁそれがわかったところで、

とても自分の結婚式であの種のものを流す気にはなれないのだけど。

 

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・好きな人のこと

自分が大好きな人間のことを、

ついつい崇め奉って、

善なる者として扱ってしまうので、

相手もそれを裏切れなくなるの、

最高のディスコミュニケーションだな、と思います。

 

・誰かに好かれること

少女漫画を読みすぎているので、

どこかで誰かに見初められることを待つのを、

いつまでもやめられない。

君と目があって動けなくなりたいのにな、と

ザ少年倶楽部見ながら思っています。笑

 

・自由恋愛

あらゆるステイタスを投げ捨てて

片思いとかしたいな…

って週一ペースで思っていますね。

彼氏ってなんなんだろうな…

 

 

 

 

 

 

 

「卵を読んで」

 制服が夏服に変わった頃、中学生である私は国語の教科書を右手の指先でつまみながら授業の成り行きを眺めていた。

机の上には私の両腕の肘から下がおおむね投げ出され、合板の机の天板は肌からうすく滲みだす汗を迷惑そうに受け止めている。  

 肋骨が折れている喜多先生がこの作品の授業に入ったのは月曜日のことで、今日は水曜日だ。

だというのに、先生がたった今発した設問は、 「著者がこの段落の中で情景を描写している部分はどこだと思いますか。」 だった。

おそらく答えはこうだ。

「白ウサギの跳躍に似た波が海面を走る、の部分です。」 この肋が折れているというのにそれについて無視を決め込んで2ヶ月もたとうか、というせいぜいよく言って"飄々とした"喜多先生は、前回月曜日の2時間目からずっとこの調子だった。ひたすらにこの「卵」という文章の冒頭から半ばにかけて頻出する情景の描写について、 抜き出し、説明する。

生徒に具体的に風景を想像させる意図があるのかもしれない。(そういえばこの教科書の目次、「卵」の記載の右上には「☆情景をたのしむ」と書いてあったように思う。)  月曜日は島の地理的全容を把握した時点でチャイムが鳴った。

確かに宝探しに出かけるならこれで準備は万端だけれど、私は新学期、教科書を貰うとその日のうちには一通り読んでいる。

だから当然この短編が、卵から雛が孵化する瞬間に実際には立ち会えない離島の少年の話、ないしは第一にはそのことを不憫に思い、また第二には彼を他の生徒と対等かそれ以上に扱いたいと考えたであろう担任の紺野先生の話だと知っている。

にもかかわらず、その最初の授業の間、何度かその入江に卵を掻く二つの岬のイメージを思い浮かべる羽目になったくらい、肋先生は徹底していた。

 

 二回目の授業のいそがしくない時、私は白いウサギが海の上を走る様を思い浮かべている。きらきらとウサギが走る。  

 

 明くる週の月曜日『夕闇のなか、群青の水尾をひいて舟は島へ向かった。』

 

次の水曜日、孵化の場面をぱたぱたとやっつけて、涼しい顔で先生がした発問は、「どうして、この少年は、紺野先生に手渡された卵の殻を、『最初の一片にちがいない』と思ったのでしょう」であった。

 

 実のところ、教科書に載っていた作品で感想文を書こうと思い立った時、私が有していた『卵』にまつわる記憶は、これだけだった。

その上で思い返すと、この計四回の授業の進め方は、(今同じ課題文を手にしている貴方ならば簡単にわかることとは思うが)分量から謂えばどうにも偏っている。

先生は、物語に添って順当に行けばクライマックスと捉えられるべきであろう卵の孵化の瞬間に向かって授業を進めることは一切試みなかった。

ただ、この島の地形や自然の情景、を描写する一文一文の言葉の意味を説明した。  

 

そして私は25歳になった今、机の上のだらしなく伸びた腕と岬を、

卵と島に付属する小さな離島を、

卵の殻を毀す雛鳥とその最初の聲を無線機越しに聞いた少年を、

重ねて、思い起こす。

 

先生の最後の設問について、私がなぜだと思ったか、どうしてそうであればよいと思ったか、(具体的に言えばもしその殻が最初の一片である事実が重要ならば、紺野先生にセリフで言わせれば便利がよいように私は思うのに、著者はなぜそれを『最初の一片にちがいない』という地の文における主体の不明瞭な強い推定で表すに留まったのか、と思考をめぐらせて対面した一つの景色について)ここでは書かない。